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  • 『「フクシマ論」-原子力ムラはなぜ生まれたか』 開沼博著


    日本の歴史において、この風土に安住してきた人々に明治維新ほどあらゆる面において激震を与えた事件はないように思われる。維新によってもたらされた西洋文化の価値観は、江戸時代まで連綿と続いてきた生活価値観をすべてなぎ倒してしまうほどのものであった。

    現代では報道写真家という職業の人がいるが、それに当る報道画家として幕末日本に来日して日本で没したチャールズ・ワーグマンの『ワーグマン日本素描集』(岩波文庫)などを見ていると、150年も経ずしてこんなにも日常生活の風習というものが変わってしまうものかという驚愕の念と共に、日本人の環境適用性の素早さに、これは何であろうかという問いが生じてくる。

    開沼博著「フクシマ論」はまるで今回の東日本大震災に合わせるように発刊された。この書は彼の社会学の修士論文ということであり、たまたま提出時期と重なってしまったという事であるが、いま書店に溢れんばかりある所謂“原発本”とは一線を画している。

    それはこの書が「近代化とは何か」という問いを“エネルギーと社会”との関係から根源的に解明していこうという姿勢である。キーワードは“原子力ムラ”である。原子力発電所を受け入れそれを生活の生業としている地域としての原子力ムラ。そして国家のエネルギーとして原子力を推進しようとしてその利権に群がる政界・財界・学会の人々の集まりを<原子力ムラ>と鍵カッコで示す。

    この両“原子力ムラ”が{成長とエネルギー}という名の下にどのように近代化を成し遂げるのか。著者はこの問いかけを原子力ムラの社会史として捉え、そこでは幾重ものaddiction(嗜癖・耽溺)が絡んでいるという。この(嗜癖)とは行動の悪習慣として、アルコール依存症などの問題として提示されているそうだが、原子力ムラと地方の関係もここにこそその根本が潜んでいるという。

    著者が植民地主義からポストコロニアル研究までの射程で、近代とは何ぞやと問いかける時、そのまちを見て、「成長を支えてきた“植民地”の風景は“善意”ある“中央”の人間にとってあまりにも豊穣であるはずだ」というとき、そこにこそ日本の景観問題の根源的問いかけが潜んではいないか。景観を論ずる場合、瀟洒な住宅街の隅々に電信柱と電線網が張り巡らされていることに、そしてその住宅街のはるか上空にある威圧するかのような送電線に疑問を抱くとき、私達はまさに“近代化とは何ぞや”と問いかけているのである。(斉藤全彦)