景観探訪

景観探訪の実施状況

長野県上高井郡小布施町 視察記


<小布施町訪問>

小布施町では2004年景観法の制定前から、景観を重視したまちづくりに計画施策が積極的に実施され、1976年浮世絵師・葛飾北斎(晩年当地を訪れ、多くの肉筆画を傑出)の作品を保存・展示する「北斎館」が開館したことから始まる。

1981年第二次小布施町総合計画に、すぐれた自然環境と文化景観がほどよく調和した“小布施の格調”を維持・成長させ、住民の協力を得てまちの景観をつくりあげる「まちづくり基本構想」宣言が発令され、歴史文化ゾーンに設定された町中心部地域――老舗 栗菓子店舗等での行政と関係住民・事業者の協働による町並み修景事業や格調ある住まいづくり・店舗づくりによる景観形成を展開する。 1987年小布施町地域住宅計画(ホープ計画)で定めた町特有の家づくり・町並みづくり指針「環境デザイン協力基準」は、1990年「小布施町うるおいのある美しいまちづくり条例」制定に繋がり、景観意識“外はみんなのもの、内は自分たちのもの”が共有化する。

2004年景観法制定により全国的にまちづくりが推進されるなか、2005年東京理科大学と協働で設立した「小布施町まちづくり研究所」等“まちづくり第2ステージ”を始動し、2006年に小布施町は景観行政団体となり、景観法に基づき前述の条例を全面改正して、景観計画の策定をはじめ建築等に関する届出制や各種助成金を設けるほか、屋外広告物条例を制定する。

視察の目的は、理科大が関わる小布施町まちづくりの実態であり、まちづくり大学の役立ち方である。後者は前述のごとく、今回限りにおいては効用が見えず、ある意味では予想の範囲だ。 主たる目的の前者は推察通り、それなりの観光化と技術者の枠を超えていない。 例えば、行政の典型的な施設――町立図書館テラソは、交流の場というコンセプトで木立の森(と想像する)内部空間と調和を意識した(と想像する)塗壁+木片軒の外観で成立ち、設計者の手腕は高評価できても単体としての完成度の域から脱しない。

つまり、行政にありがちな施策――有名建築家に頼った個体のばらまきで、結果、他との連携が希薄になる。 換言すれば、個々の完成度がいかに高くとも、町全体の景観としてひとつにまとまらない。 これは同様に町中心部にもいえることで、一見調和したような個体の乱立が目立ち、この地域一体が他の地域と分断された、点としての箱庭に見える。

結論からいうと、個性豊かなそれぞれの建物に共通した外構と、それを繋ぐであろう路線沿いに仕掛けが少ないことが要因に他ならない。 そこで改善提案として、駅前から中心部の“箱庭”までを結ぶ沿道に、小布施町として伝えたいメッセージ(モニュメントも一考)をはめ込みたい(栗の木舗道はモルタル補修が心もとない)。 一方では、経済対策のほか関係法規の運用を視野に、ハード面の技術に偏らず且つ技術を熟知しつつ、両面で進めることが肝要である(小布施町の今後の課題とも聞く)。

最後に、リピーターとしての訪問は馴染むかどうか、これからの小布施町住民のまちづくりへの取り組みいかんと思えるが、研究題材として多くの大学が再来するように、まちづくりの経過はこれからも注視してゆきたい。

追記 宿をとった渋温泉はいわゆる温泉街ではなく、低層の木造宿が建ち並ぶ昭和情緒溢れる温泉町である。小布施町と異なるカテゴリーだが、心なごむ風情に満ちた町並みは多くのファンマニアを生むだろう。

(文責:山崎晃弘(建築コンサルタント/一級建築士))



<小布施町を訪ねて>

「晩年の北斎が愛した町」「まちづくりの奇跡」と称される小布施町は1.15万人の人口に対し年間100万人以上の観光客が町並みを目的に訪れる。 また東京理科大学が町と共同で「まちづくり研究所」を設置し活動を行っている。これらの現実はまちづくりの大成功の事例であり「景観」の元に集う我々にとって大変興味深い。 今回の訪問は、実際の町並みを肌で感じること。まちづくり研究所の川向先生がコーディネートされる市民講座を受講することを目的に、現地に向かった。

多摩西部の国立から約3時間のドライブで、果樹園が広がる景色を見ながら、善光寺文化の雰囲気を感じる長野須坂ICで高速を降りる。 初めての場所は位置関係、距離感などの経験値がなく、小布施の空気を感じるポイント、町並みの切り替わりを見逃さないように注視する。

地籍は小布施にはいり期待が膨らむなか、北斎美術館から突如として「修景」をテーマとした町並みがはじまった。車窓からの眺めは、川向先生の著書で予習したとおりのデザインコードでまとめられた外観が連続し、適度に設けられた建物間のスペースはゆったりとした町並みを演出しており、テキストからの想像を超える完成度の高さに圧倒された。一見して住人の意識の高さ、設計者の創意工夫がひしひしと伝わってくる。

昼食をいただいた後、散策をはじめた。まちづくりにあたり「ソトはミンナのモノ、ウチはジブン達のモノ」という哲学が共有されたという。なるほど店舗の庭は細路地へと抜け、いつの間にか民家の裏庭につながり、その先にはまた水路を伴った路地へ導かれる。このシークエンスに小布施の真骨頂を見たような気がした。移築、新築された建物は主に店舗として使われており、外観は町並みの重要な一角を担っている。

店内は気が利いた構えであるが、それ以上の要素は感じなかった。また、現代の車社会の計画らしく駐車場の確保には配慮されているが、散策の目線からは違和感を覚えた。建物の佇まいに対して、昔は存在しなかったであろう駐車場空間が町並み形成に悪影響を及ぼしているかもしれない。

そのあと北斎館からはじまるミュージアムめぐりに陥ってしまった。観光地によくある時間を不用意に消費してしまう○○ミュージアムが小布施にも存在する。猛暑のなかで心が折れかかっていたのかも知れない。気をつけよう。ただし岩松院の北斎による天井画は必見で150年経ってもあせることのない色彩、本物が持つ迫力には感動した。

夕方、目的のひとつである、まちづくり大学を拝聴したが、道路行政における技術的な苦労話に終始して、我々の観点からは収穫が少なかった。 その前に訪れた小布施町図書館、「まちとしょテラソ」の建物のすばらしさもさることながら、花井館長に偶然お会いし、お話を聞けたことが良かった。映像プロデューサーの経歴をもたれ、小布施町に魅せられた県外からの移住者である館長のテキストのなかに「見えないものを見る」との一文がある。映像製作における姿勢とのことだが、必ずまちづくりの中にも生かされていくだろうと思った。街並みのハードと館長のようなソフトが融合したときの変貌を期待せずにはいられない。

小布施町は平成8年に景観づくりの指針として「あかりづくりマニュアル」を発行している。一応、専門分野なので宿に向かう車窓から夜景観を考察する。20:00過ぎであったこともあり店舗は閉まり人影はほとんど見られない。歩道に低めのポール灯が点在するだけでこの時間帯からは普通の地方都市を見ているようである。

人の流れがないところに生きた夜景観は発生しないし必要もない。テーマパークが閉園してしまったのか。昼間の違和感は夜になって確信した。ここには住民の存在が感じられない。まちの賑わいは昼間だけでは片手落ちで、夜間にも人が行きかう魅力を持ってこそ街並みに表情が生まれると考える。昼間のポテンシャルは申し分ない小布施に夜の賑わいを造ることは難しいこととは思えない。そうなったときの街並みもきっと美しいに違いない。

翌日は役場のまちづくりの実務担当者に現場のお話を聞かせていただいた。これだけの街並みに仕立て上げ、コントロールしていくご苦労は想像に難くない。実際、街並みの保全についてはさまざまな条例やデザインコードを提示することで守られる体制を構築されている。 設計者泣かせであるが。。。しかし行政の役割は、人口、雇用、経済、教育など多岐にわたり、それぞれがバランスよく成立することで、本当の意味で街並みに表情が生まれてくる。 永遠の課題であるが、小布施町は長年にわたる苦労の結果、他の地方に比べ遥かに有利な条件を備えている。行政の采配に期待したい。

また我々フォーラムも、生きた景観を創出するために、これらの諸問題に適切に助言できる総合的な知識を備えた存在でありたいと思った。 最後に修景された街並みとは線路をはさんで反対側に位置する玄照寺を訪れた。昭和の名工の手が入った荘厳な木造寺院である。

昨日の岩松院といい歴史的な豊かさを感じる。と同時に修景地区には寺社仏閣がないことに気がついた。生活を感じる街並みには神社であれ仏閣であれ精神的な場が不可欠ではないか。つくりの密度が民家や店舗とは桁違いの建築物が存在してこそ街並みが引き締まるのではないかと思った。


追記 渋温泉に泊まって

小布施から志賀高原への途中、車で30分弱の渋温泉に宿泊した。今回の目的には関係がないがあえて書くのは街並みが素晴らしかったからである。我々の関心にドストライクであった。小布施で感じた違和感の回答がそこにはあった。

端的には、小布施の修景地区は緻密に計画された無機質な街並みに対し、渋温泉は自然発生的に年月を重ねて形成された有機質の街並みといえる。車社会以前から変わることのないスケールの中通り、夜の賑わい、公共の場としての神社、浴場など全てが心地よかった。自動車を締め出した夜間の散策は特筆ものである。渋温泉の歴史に比べて導入の年月が浅い街路照明の使い方はいまひとつだが、素性(街並み)が良いものの再計画はそんなに苦労しない。

照明(光)とは女性の化粧のようなものと考えている。きれいなひとはそれなりに。そうでないひとはそれなりに。ここで言うひととはもちろん街並みである。

(文責:野村宏幸(照明コンサルタント / 一級建築士))



<小布施町訪問レポート>

小布施町と東京理科大学で開設したまちづくり研究所所長 川向正人氏の著書『小布施まちづくりの奇跡』(新潮新書 2010年)によれば、善光寺平(長野盆地)にある小さな町で、毎年まちの人口の100倍にあたる120万人もの観光客が訪れる町とのことである。 その魅力の源は「修景」というまちづくりの手法にあるという。「修景」とは、同じく川向氏の本によれば「伝統的な町並みに固執しすぎず、とはいえ、まちの歴史をまったく無視した再開発でもない。

いまあるもの、そこに暮らす人々の思いを大切にしながら、少しずつ「景」観を「修」復して、まちをつくっていくプロセスだという。この川向氏の著書を「予習の書」として、この「修景によるまちなみづくり」を実際に見るべく小布施へと向かった。 訪れたのは2011年 8月10日(水)、11(木)会員 総勢4名であった。

きっかけは、会員の1人からの提案である。その会員の方からの情報によると、この町では、小布施町と東京理科大学が一緒になり、まちづくり研究所なるものを開設しているとのこと。この まちづくり研究所が主催する「まちづくり大学講義」が 8月10日 夕に開催されるのに合わせた行程となった。 「まちづくり大学講義」とは まちづくりに携わる方を講師として招き、まちづくり研究所長(東京理科大学理工学部建築学科教授川向正人氏)をホスト、会の進行役としてテーマを決めて開催される講義とのこと。

(今回伺った際には福島県会津若松市の都市計画に関わる行政職員の方による主に道路形成に焦点を当てたお話と質疑応答であった。今回の会であるが、列席者は40名ほどであったであろうか。 ただ、質疑応答も、ホスト 川向氏の主に技術的な、細部に向けた観点からの関心に基づく講演者とのやり取りが主体となってしまい列席者の活発な意見などを引き出すような場にはなっていなかった印象が残った。この点は、遠方から来た方もおられるのであろうから、もっと配慮されても良いのではないか、というのが当フォーラムからの参加メンバー全員の一致した意見であった)

今回の訪問の事前計画時には明確に想定していなかったが、興味深いことに、今回の訪問に際し小布施町を含む近郊の3つの異なる地域の様子を比較して眺めることができた。

  1. 小布施町
  2. 信州中野地区(1 と 3 を繋ぐ地区として幹線道路を通過)
  3. 渋温泉地域(ここに宿泊をした)
2) については語るべきところはない

拡幅された幹線道路の脇に全国見慣れたチェーン店舗の看板など、日本中ある程度の規模のエリアに見られる地域色の感じられないまちなみである。(幹線道路を通過しただけの印象なので酷ではあるが)

となると主立っては 1) 小布施町 と 3) 渋温泉地域 のまちなみ比較になるが、訪問メンバー揃って 3) エリアにより惹きつけられたと口にした。長い歴史を経て、行き交ったであろう多くの人、それを温泉街として迎える人々、そうした往来時や生活の息吹のようなものの堆積が織り成すのか、路地、ふとした通りの角、神社へと続く石段、そこかしこから何とも言えない味わい深い空気、趣を感じた。

前掲書で、修景の特徴の1つ(すなわち小布施町のまちなみを形作る要因の1つ)とされる「自然態」(時の経過のなかで到達した古建築の自然な状態)を(時に曳き家等の手法も用いて)可能な限り残すこと、それが実は3) エリアの至る所に見られる気がした。(いくつかの箇所では特に絡み合って玉になっているようで見苦しい印象電線の姿を除いては)

以上の点から小布施町と渋温泉の二者を見てより後者に心を動かすものを多く感じ、その差を生み出すものについて考えてみた。先に記した渋温泉のいくつかの箇所で目にした特に見苦しい電線の姿からして、まちなみ形成についてどの程度計画的に、意識高く進められているかに関しては、小布施町の方が勝ると推察される。

しかし、小布施町の方が我々の情動に訴えかけるものが弱いという印象が残った。これは何故か。我々の中からは小布施のまちなみ、特に中心街区は「ディズニーランドのよう」といった言葉が出た。ディズニーランドは訪れる人の、特に「喜」「楽」の感情を引き出すために、かなり緻密に仕組まれた人工の産物である。

「修景」も具体的な方法として曳き家、解体移築、新築追加、家の向き・高さ・仕上げを変更したりというところから当然ながら人により緻密に仕込まれたものの反映といえる。片や渋温泉は、温泉という天然資源を基本土台として、温泉また温泉場風情を愉しみに訪れる人々、それを迎える宿場、商い場の人々、時に昭和初期や更には明治期から残るという宿場家屋、それらに挟まれた路地などが折り重なって「まちなみ」という「群」を形成している。

何を基本土台と見出すか、そしてそれを取り囲む種々の要素の自然・人為の配合バランス、その差が印象の差を生んでいるように感じられる。渋温泉はその土台として自然資源(温泉)に多くを依拠し、小布施町はまた違ったものを土台として形成させる必要がある。ただ、これはその土地の特色を如何に捉えて景観という「表現」に結びつけるか、正に地域ごとの取捨選択によって無数の選択、その結果としての表現を愉しめるはずである。


結びとして、改めて振り返り、印象をまとめてみたい。

まずは如何に市民力を増幅させて多くの人が満たされるまちなみを築いていくことが大変な行いであるかを思わずにはいられないということである。 小布施町の特に中心街区に関して、厳しい目を向ければ「手のひらサイズ過ぎて深み、深い味わいが感じられない」という印象を抱いた。 (先述のディズニーランドに重なる印象)簡単に言うと綺麗に作り込まれた感じには中心街区全体が「小ぶりサイズ」ゆえ慣れてきてしまい、その中にある小ぶりな美術館、博物館も、この地にとって重要な葛飾北斎、高井鴻山にまつわるもの(それぞれ北斎館、高井鴻山記念館)以外は巡っていくうちに存在の必然性の薄さが気にかかり、地域の特色づくりに関するアイデアのワンパターンな感じが透けて見えるような感覚さえ抱いた。

(一言で言えば「美術館疲れ」してくる)しかし、転じて好意的な目を向けると、前掲書で項立てされているように「そこに住み、働く人たちが主役」「当事者すべての希望をかなえること」といった要素に心を配りながら現在も進行する「修景」の取り組みをつぶさに拾い上げ、考察することはやはり参考になるかと思う。

ただ、多くの人[言わば利害関係者]の合意形成を引き出してまちなみを造っていくという行為そのものが大変労力のいる事であり、その点にはまず敬意を表さなければならない。

中心街区については、代々中心街区で暮らす所謂 地元の名士と建築家(宮本忠長氏) 数名の協議から「基本土台」を形成し(これは、特徴と成果ある活動を起こすには、初期の段階においてはあまり多くの人による合意形成、「民主主義」に拠ってしまうと核となるものがボヤけ成るものも成らないのではないか、という組織論的な観点からは示唆的)、その後、学(東京理科大学)も住民も交わって紡ぎ出された「表現」がそこに存在している。

今回の訪問で、「住民の影」を感じるのに多くの機会を得たとは言えないがその中から2つほど、小布施町立図書館と「オープンガーデン」の取り組みを取り上げたい

まず、小布施町立図書館。若い印象の館長からかなり丁寧に応対頂き、2009年夏に開設されたこの新しい印象の図書館設立の経緯などを伺った。(コンペの末、建築家 古谷誠章氏の手により設計されたとのこと。町側から「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」という練り上げられたコンセプトが提示されたようで、その上に立って建てられたようである)伺った時には、他地域からインターン中という大学生たちが図書館スペースの一角で話し合いをしている姿も見られた。

何人かは町長がホームステイさせているということであった。また館長自身、元々は九州出身で主に関東圏での職務を経て、この地区が気に入り、移り住んで来たという。所謂 東京、大阪、名古屋の三大都市圏人口が日本の総人口の50%を占めると言われる環境下、それ以外の地域にとっては、特に若年層に向けても巨大都市に気圧されない魅力的な地域づくりというのはどこも課題であると思う。

まだ取り組みの端緒かもしれないが、働き方の提案など、まちなみづくりのハード面のみならず所謂ソフト面に於いて三大都市圏とは違った魅力づくりの動き、その象徴として小布施町での試みには今後も折に触れ注視したい。 もう1つの「オープンガーデン」の取り組み。これは、前掲書の表現を借りれば「私の庭にようこそ運動」という、自分の庭を自由に見られ、通れるように解放するという住民活動である。行政(小布施町)によると、その源流は 1988~89年にかけての竹下登政権時の「ふるさと創生事業」時にあるという。 その予算を利用して、行政側から住民への呼び掛けで、このような取り組みを既に行っていたフランスの地域へ視察団を組成してから育ってきた活動とのこと。 「ふるさと創生事業」の各市区町村での使われ方については、(金塊を購入したりなど)かなり珍奇なものが報道されていたが、現在のまちなみ形成やそれへの市民の取り組みに深く影響を与える使い方をされたケースとして感銘を受けた。 今回の訪問最後に、「小布施deカントリーウォーク」という浅草のプロの手により作成されたという見所地図中の『「昭和の左甚五郎」三田清助が棟梁となって造られた本堂がある』という情報が気になり玄照寺という寺を訪れ小布施を後にした。先に、「修景」の取捨選択・造り込み、のプロセスの中で、場が纏ってきた時間・歴史の重みを削ぎ落としてしまう可能性の存在について触れた。この玄照寺の建物群は、地図の「謳い文句」に違わぬ、歴史の重み、時間の流れを受け止め、纏った威厳ある趣を我々に見せてくれ、その存在感にしばし圧倒された。

小布施駅前を含む中心街区以外のエリアの「修景」は、何を取捨選択するか、点ではなく群で考え造り込んで行く取り組みが現在も進んでいると言う。この群の形成は小布施町の中でもいくつか特色が分かれ、それを丹念に拾い上げ、行政も頭を悩ませつつ対応しているという。本章の冒頭に触れたように、その取り組みは大変な労力を伴うであろうが、願わくば、最後に目にした玄照寺が醸す、その場ならではの重厚な空気感のようなものを時を重ね町内のいたる「群」で感じられ、愉しめるような進展を見せてもらいたい。 (文責:角田善彦(まちづくりコーディネーター))

埼玉県飯能市坂石町分吾野宿 探訪


■10軒ほどある古民家

古い街並みが残る埼玉県飯能市の吾野宿で8月2日、「古民家探訪ツアー」という催しがあり、地元の主催者からの誘いもあったので参加した。 吾野宿には池袋から西武池袋線特急で飯能に行き、そこから西武秩父線で吾野(あがの)駅で下車。 吾野宿へはそこから5分くらいのところだ。 6メートルほどの路をはさんで左右に住宅が建ち並び、一見商店街のようではあるが、売店のようなものはほとんどない、ところどころ蔵のある古民家が点在し、なるほど宿場町の面影を残している。

このような歴史的な街並み景観を地域再生やまちづくりに生かすには、できるだけ古民家を残し、建て替える際にも外観を変えないで改修することである。それには、古民家を地域資源として活用していく仕組みが地域に備わっていなければならない。 10件ほどの古民家は、ほとんど建てた当時の外観を維持し、歴史を感じるが、今後居住者が変わるか、高齢化によって一人暮らし世帯になるなど、状況が変われば、建物の老朽化が急速に進むことも予想される。 10件の中で問屋と呼ばれる長屋門のある古民家は、地域住民の集会場など交流の場として活用されていた。そこは個人宅なのだが、中を見学できるように定期的に開放している。その2軒並びには「紺屋」という屋号の古民家があり、かつて店舗として使っていた店部分と隣接する和室をギャラリーにして写真を展示するなど、古民家の特徴を生かした活用法が目を引いた。


■古民家を残すには

古民家を残していくには、居住だけではなく、用途替えを含めて活用法を考えていく必要がある。吾野宿という歴史的街並みの景観価値を高める観点から活用を考えると、以下のような方法が考えられる。

  1. 管理者が古民家を保存することを前提として住居を貸し出す
  2. 「問屋」のように住民の交流拠点(住民が世代を越えて集まり話をする多機能集会場)
  3. 宿泊施設(旅館)
  4. 食堂(地域の特産物を使った吾野オリジナルメニューを揃える)
  5. 特産品や手作り品を販売する店
  6. 「紺屋」のようなギャラリー
  7. 資料館・博物館とったミュージアム
  8. ブックコーナー(寄贈の図書類、レコード、資料を集めたコーナー、読書室、クラブ用会議室)
  9. 福祉・介護施設
  10. 子ども預かり所

では、元の居住者がいなくなった場合どうするのか。例えば、行政が買い取ることはたいていの場合は難しいので、歴史的(景観的)価値の高いものは、ナショナルトラストのような団体が購入する場合もあるので、評価額をあらかじめ調べておく必要がある。その上で、活用方法を考え付加価値を高めて全国的に購入者を募集する。あるいは、出資者を募り「地域みんなの共有物」にする方法もある。要は古民家をどうやって残すかをを考えることが大事なのである。


■古民家が景観となるには

古民家が醸し出す落ちつきと安らぎのある雰囲気はは住民に住むことの喜びと活力をもたらす。 たしかに古民家がある街は原風景が目の前に浮かんだり、なんとなく哀愁を感じるが、実は、地域住民の心理に大きな影響を与えるのは、古民家自体よりも古民家を含む街並みであり、景観なのである。 古民家はあっても、景観に魅力を感じないとすれば、、街全体、あるいは隣や道路を隔てた前の建物との調和が図られていない、言い換えれば、周囲の街並み風景と古民家のある風景とが不調和、不連続になっていることにほかならない。

古民家が活かされるように街全体が歴史的街並みを構成してはじめて、古民家は景観として生きるのである。 それには住民が昔ながらの吾野宿を知り、吾野らしさを残し、さらに吾野らしいまちに改善しようと住民自ら立ち上がる必要がある。その時点からまちの景観は着実に良くなっていくのである。住民が吾野の集落に愛着と誇りを持たなかったら、古民家と呼ばれるものはあっという間に消滅する。そして、景観的にはなんの特色も価値のない全国どこにでもあるプレハブ住宅やビルが建ち、そのまちに景観という言葉は存在しなくなる。

(豊村泰彦)

栃木県栃木市 市街地の活性化作戦


栃木県栃木市は県南部に位置する人口8万人の都市。江戸時代は、市街地を貫流する巴波川(うずまがわ)を通じて、材木や麻を江戸に運び、江戸から物産を栃木近郊へ運ぶ水運のまちとして栄えた。ところが明治の近代化以降、東北本線など鉄道網や道路網の発達がきっかけで経済競争に取り残され、明治で発展がストップしたおかげで、小江戸といわれる昔ながらの街並みは残った。今はその街並みを経済発展に生かそうと市民・行政が一体でまちづくりに取り組んでいる。(レポート:豊村泰彦)栃木県栃木市は県南部に位置する人口8万人の都市。江戸時代は、市街地を貫流する巴波川(うずまがわ)を通じて、材木や麻を江戸に運び、江戸から物産を栃木近郊へ運ぶ水運のまちとして栄えた。ところが明治の近代化以降、東北本線など鉄道網や道路網の発達がきっかけで経済競争に取り残され、明治で発展がストップしたおかげで、小江戸といわれる昔ながらの街並みは残った。今はその街並みを経済発展に生かそうと市民・行政が一体でまちづくりに取り組んでいる。(レポート:豊村泰彦)


小江戸の街並みづくり
■人形もまちの顔に

小江戸の街並みが残る栃木市では毎年、商店に雛人形を飾って、街を散策する旅行者に見てもらう「お蔵のお人形さん巡り」というイベントを開催している。商家の蔵に眠っている雛人形を虫干しも兼ねて、店に飾ると同時に、商売繁盛にもつなげていこうという企画で、今回で8回目を数える。 今年の開催は、10月9日(金)~11月8日(日)。私たちフォーラムのメンバーが街を訪問したのが11月7日で、ちょうどイベント開催中だったので、まち歩きのついでに人形見学をすることになった。

雛人形を飾るのは3月の端午の節句のときだけと思っていたが、旧暦9月9日は古くから「重陽(ちょうよう)の節句」とされ、蔵にしまっていた雛人形を再び飾る「後(のち)の雛」という風習があるのだそうだ。お雛様の活躍する機会がいろいろあるというのは、お人形さんにとっても、それを見学する観光客にとっても、さらに、売り上げにつながる商店にとっても良いという点では、これも一つの「三方良し」※ではないだろうか。


■観光客に人気があるのは

栃木市には毎年大勢の観光客が訪れる。その理由は、小江戸の街並みにある。 小江戸の街並みが整備されている地区は、関東には栃木市のほかに、埼玉県川越市の川越地区、千葉県香取市の佐原地区などがあるが、そのどれもが人気の散策スポットになっている。 江戸時代の街並みというのは関東地域に住む人にとっては、共通の原風景のようなもので、それが多くの人を惹きつけているのだろう。

また、最近ブームの「まち歩き」には欠かせない、良好な景観・個性的なお店・歴史探訪の三要素が集中している点でも、この三つの街は抜きんでている。小江戸のまちは現代においては日本のまちづくりの理想像と言えるのだろう。 小江戸の街並みといっても、整備されているのは、市街を南北に縦断する大通りと市街地を貫流する巴波川(うずまがわ)周辺の48haで、ここは栃木市歴史的街なみ景観形成地区に指定されている。大通りは、中心市街地を貫通する通りとしては広々とし、街並みもすっきりしている。 おそらく、高層の建物がほとんどないのと、電柱がすべて地中化されているためであろう。街灯もアクセントとしてしっかりと景色になじんでいる。建物は、ところどころに見世蔵(蔵づくりの商家)も見られるが、多いのは大正から昭和にかけてのレトロ調の建物である。店の外観も、看板も個性的で、興味をそそられる。一軒一軒入ってみたくなるような気にさせるのは、全体として統一感のある街並みが形成されているためであろう。


■どのように取り組んだのか

栃木市の街並み形成が始まったのは、今から20年前昭和63年頃である。 県の誇れるまちづくり事業の指定を受けたのをきっかけに、「巴波川・蔵の街ルネッサンス」をテーマにしたまちづくり計画がつくられ、街並みの修景づくりが行われた。 修景については、栃木市の歴史的建造物の保全・修復とともに、特徴である蔵を復元し、蔵の街にふさわしい街並みを築くことにした。そのため、蔵以外の建物も蔵のサイズに合わせて、軒や屋根をつくり壁面も蔵が引き立つように色や素材を工夫した。

通りについては、大通りのアーケードを取り除き、電線を地中化した。大通り沿いの見世蔵の修景に伴って、そこを引き立たせるようにセットバックが施され、歩道との一体化が促進されたため、ゆとりある歩行空間が広がっている。 私は常々、店舗が施設以外の要因で景観を台無しにするベストファイブは①看板②旗(幟)③自動販売機④エアコンなどの室外機⑤シャッター――だと考えているが、栃木市の中心市街地の場合すべてにわたって問題除去に向けての対策がとられており、それが良い景観につながっているのだと思う。 街並み形成は、市役所が規制を作ったから良くなるのではない。あっても効果がなかなか現れないところや、計画が進まなかったりするところのほうが多い。栃木市がうまくいったのは、商店主などの事業者や市民が積極的にまちづくりに参画し、啓発やイベントを進めたことだ。つまり、街並みの景観を良くするだけでなく、中心街を活性化していこうと、市民が中心になって観光事業や居住環境改善に取り組んだことが成功に結びついたのである。


■景観条例はどのくらい力を発揮するか

栃木市には、景観計画も景観条例もまだない。したがって、市の景観行政は栃木県の景観条例に基づいている。にもかかわらず、これほど魅力ある街並みが形成されているのは、市民の力が大きいのではないだろうか。 行政は、新たにつくる建築物に対する規則は設けることができる。しかし、それが必ず景観の悪化を食い止められるとは限らない。 ましてや、景観が改善に向かうプロセスでは行政の景観計画や景観条例では乗り越えることが難しい場面は相当ある。

街の景観形成には、市民が自主的に関わることが絶対に必要である。市民が関わるためには、商店街であれば、商売が繁盛し、経済的に発展することである。住民にとっては、居住環境が改善され、住みやすい街になることである。それには、市民自身が自主的にルールを守り、歴史的街並みを守り、改善していくしかない。それを着実に実行していくと、栃木市や川越市が証明したように、景観は10年、20年の単位で変わっていくのである。 ※「三方良し」とは、商売上手の近江商人が「売り手良し、買い手良し、世間良し」家訓としていたことから、「三方良し」は現代のマーケティングの分野で適用されることもある。ただし、ここでの「三方良し」は、三方の一つに人でなく人形が対象となっており、商売とは離れたまちそのものの「三方良し」と捉えられる。

山梨県南巨摩郡早川町


山梨県早川町の二つの集落

景観行政団体である山梨県早川町の訪問(8月18日~19日)ではハイライトが二つあった。一つは江戸から昭和初期にかけて修行者の宿場町として発展した街並みを今に残す赤沢宿の視察。もう一つはかつて硯の村として栄えたが今では面影を残すのみとなってしまった雨畑地区の本村(集落)の視察である。(リポート・豊村泰彦)


■見事に保存・整備された街並み(赤沢宿)

赤沢宿は、南アルプス南端、海抜500mのところにあり、標高1148メートルの身延山と標高1982mの七面山とを結ぶ山道の中継地として、江戸時代から昭和にかけて講中宿(山岳信仰の宿場)として多くの参詣客を迎入れていた。 最盛期の明治期には、総数40戸ほどの集落に9軒の旅館があったが、七面山登山口までの車道が整備され、バスを利用することで往復が可能になり、観光ブームに変化が訪れる昭和期にはいると赤沢から客足が遠のきはじめた。

今では、旅館として営業しているのはわずかに1軒(江戸屋旅館)である。廃業してしまった旅館の玄関付近には、各地からやってきた講が残していったた名札が下げられ、当時の繁栄を偲ばせる。 観光客の減少にも関わらず、往時の街並みが状態良く保存されているのは、赤沢宿全体が文化庁の重要伝統的建造物群保存地域に選定されたことによるものだ。これにより、修復された民家は十数件に及ぶ。


■景観資源を生かし、地域振興を

今後も、修理、復旧は継続されると思うが、将来的に補助金に頼らず自立していくためには、空き屋や遊休地の活用を図り、歴史的景観を維持しながら住民が快適な生活を送れるような地域産業を再興していくことが必要となる。 そのための方策としては、まず、住民が地元で生産した食料等をできるだけ地元で消化していく地産地消力(自給自足力)をつけること。さらに住民が協働で事業(農業・工芸だけでなく時代にあった物づくり)を興し、生産力を高めていく協働事業を推進することである。

2番目は、赤沢宿における田舎暮らしのコンセプトを公開し、新住民を民家に積極的に受け入れいくことだ。そのため、建造物の外観を維持しながら、個人の生活様式、仕事の種類や事業目的に合わせたリノベーションを行うことも必要だろう。 3番目は、観光だけでなく、環境教育や景観教育の教材として活用されるよう、教育関係者と協働でプログラムを作成し、学校や生涯学習の場に広めていく。例えば、田舎暮らし体験学習、古民家講座、郷土料理教室などのプログラムをつくり積極的に旅行者以外の人を受け入れていく。 以上のような取り組みが考えられる。


■かつては硯で潤った村(雨畑地区)

早川南アルプス街道にある早川町役場を過ぎ、井川雨畑林道の分岐を左折し、川沿いに遡ると15分ほどでダムによってできた雨畑湖に着く。雨畑は、国内でも屈指の名硯と言われる雨畑硯の産地である。 雨畑硯は、雨畑湖より奥にある稲又集落の坑道から採れた原石を使う。原石は粒子が細かく、墨を擦るときの滑らかさといい、墨汁の伸びの良さといい、硯に最も適した石質を持つと言われる。 雨畑硯の歴史は700年前まで遡り、昔から文人墨客に愛用され、江戸時代からは将軍や天皇にも幾度となく献上されたという。

そのような長い歴史を持つ地域産業であるにも関わらず、墨文化の衰退、硯需要の低下に伴い、この地域で硯をつくる職人の数は年々減少し、今でははわずか一軒という寂しい状況だ。地域の伝統産業は今や風前の灯火となっている。 その唯一の1軒が雨畑地区の本村という集落である。30~40軒くらいあるだろうか。村には風格のあるお寺や神社があり、民家もかなり立派であるが、その中の何軒は空き家となっている。明治時代には集落に硯職人が100名以上いたというが、そのころは、生産が追いつかないくらい硯の需要があり、村人の経済状態も潤っていたのだろう。今は集落のところどころに雨畑硯の看板だけが虚しく残っている。


■「雨畑硯」保護とまちの復興へ

早川町でも地域の伝統的産業である「雨畑硯」はなんとか残したいと、雨畑地域に硯の展示と硯工の実演、硯づくりの体験ができる硯匠庵というミュージアムと宿泊施設「ヴィラ雨畑」を建設し、「雨畑硯」の価値の保護と硯づくりの存続を図っている。 しかし、やはり硯の生産地は本村であり、そこを含めてまちの再興を考えるべきではないだろうか。硯は単に書道の材料というだけでなく、墨の文化を構成する重要な要素でもある。文化の中国から伝来したといえ、墨の文化は千数百年間にわたって日本の文化に溶け込んでいる。硯づくりもすでに日本の伝統文化の一つとなっている。

日本の伝統文化を守り、後世に伝えていくことは私たちの使命である。全国の硯の職人が雨畑に来て仕事ができるように、本村の廃屋も修繕して、職人に提供することを考えてよいのでは、とかってながら思う。 まちづくりの手法にエコミュージアム(西欧が発祥)を取り入れている地域が日本でもある。伝統文化・産業の保存をある状態のままで保存継続させていく方法だが、雨畑地区をまるごとミュージアムとして存続させるのも一つの方法ではないか。 エコミュージアムには、新たにハードをつくるという公共事業に依存せず、人を育て、活用する、協力体制をつくる、地域コミュニティーを再生するといったソフトの整備が必要となる。これからは市民自らが立ち上がってまちをつくる時代となる。それを実践するチャンスと考えてもよいだろう。