• Book Review
  • 『この最後の者にも』ジョン・ラスキン著 飯塚一郎訳


    アメリカ合衆国の貿易赤字が生じたのはかなり以前になるが、昨年度(2011年)日本が貿易赤字に転じたというニュースが世界のトップニュースで報じられている。エコノミック・アニマルと言われながらも貿易立国として世界を制覇してきた四半世紀の日本。そしてこの日本型システムのGDPが世界第3位に転落し貿易赤字の国になったということは、世界のうねりが大きく変化してきている証であろう。

    19世紀はその前世紀の産業革命という大きなうねりを得て、欧米では経済的大発展の時代ならびに社会的諸問題大発生の時代であった。アダム・スミス(1723‐1790)の『国富論』(1776年)の出版により経済学の産声があがり、翌19世紀、ジョン・スチュアート・ミル(1806‐1873)は功利主義を掲げ、『経済学原理』(1848年)の出版により古典派経済学の基礎を確立した。その経済学の基本的考え方は、ものの価値というものは交換価値と使用価値とによって決定されるというものであり、それは現在でも確実に受け継がれている。

    ジョン・ラスキン(1819‐1900)は、ミルと同時代の人間であり、初めは『近代画家論』でターナーを掘り起こした美術評論家として世間に認められた。その彼が果敢に挑んだのが人間活動を経済学という狭い一方的な見地から規定してしまう考え方であった。それは人間活動における価値というものは、経済学が主張する交換価値や使用価値だけで判断されるのではなく、ものには本来備わっている本質的なそれ固有な価値があるのだ、とこの書で宣言した。

    固有価値・本有的価値(intrinsic value)と訳されるこの用語は、日常使われる言葉としては「ほんもの」とでも言い換えることができよう。それはまさに、芸術文化や自然環境、それらを活かした建築物やまち並み景観という他に交換や使用のできないものを持っている価値のことである。

    この書はかなり難解な書で当時としてはかなり曲解されたきらいがあるが、そういう受難に会いながらもこの考え方は地下深く脈々と引き継がれ、1895年ナショナル・トラスト(国民の信託)を設立させるべースとなった。現在ではスコットランドを除くイギリス国民の16人に1人の割合に当る360万人を超える会員と年間4万7千人にも及ぶボランティアの協力を中心に運営されている。イギリスの素晴らしい景観はこのような思想的背景があってこそ存続できているのであり、日本の素晴らしい景観をどのように存続かつ創造するかは、まさに国民の信託にかかっている。(斉藤全彦)